| 「尼崎は4万石の城下町だった」 |
江戸時代の尼崎城は現在の阪神電鉄と庄下川が交わる東南側一帯にあり、城内小学校・中学校の場所に本丸がそびえていました。中学校の土地は旧尼崎女子高校、後に市立尼崎等学校であった。筆者も市立尼崎校出身であるが、卒業後北部阪急沿線沿い上の島へ移転し現在に至っている。影も形もなくなってしまった尼崎城が模型で尼信会館(尼崎市東桜木町3)に展示されています。
1700年ごろの姿を忠実に再現したものらしいです。模型製作に当たったのは建築史研究家の松岡利郎さんとアマチュア城郭研究家の青手木 正さんです。青手木さんは尼崎育ちで尼崎在住の会社員で、模型作りでは尼崎城の時代考証を担当されました。この文章は平成13年6月1日(金)〇〇新聞のはんしん版を参考に書いていますが、11月10日市民まちづくりフォーラムで青手木さんと同席した折、我が組合がホームページの製作準備をしている事より掲出の許可をもらい、その後色々と調べて見たことも含めて書いてみました。模型は実物の300分の1の縮尺で、縱1・4メートル、標1・8メートル大(参考写真) 尼崎市歴史博物館準備室の資料等からも将軍を迎えられる大書院などを含む壮大な建物で、幕府の普請奉行が手掛け、名古屋城や京都二条城にも匹敵する豪壮さで、海に浮いたように見えたことから浮城とか横からみた琴に似ていたことより琴浦城とも呼ばれていたとのこと。
築城エ事は夏の陣直後の1618年に始まり、大坂城の西の出先として徳川幕府が西国大名ににらみをきかす役割を持っていました。城の西側と北側に川と堀を配置し、その西側には寺町と侍が住む東屋敷町・足軽が住む西屋敷町、その西外に出屋敷が配置され西北をにらんだ陣形の町だった。領土も塩屋・須磨寺近くまでと広く兵庫の港も管轄していました。朝鮮通信使の行程と尼崎等市の資料に見ることが出来ます。
ここに掲載した写真は荻原一青(尼崎出生)氏の描かれた尼崎城である。日本名城画集成(昭和53年1月10日初版)著作権者荻原せっ子より掲出しました。荻原一青のプロフイ一ルを少し記しておきます。明治41年(1908)10月尼崎築地に生れる。大正4年(1915)4月尼崎市立尋常小学校(現城内小学校)に入学。その少年時代を、昔日の面影をとどめていた松平氏の居城「尼崎城」の堀と石垣に親しみながら育つ。昭和4年(1929)姪川芳雲画塾で友禅画の修業9年の後「一青」の号をもらい、その後和歌山市内で画塾を開く。天守の美しい和歌山城址をたずね、幾年月か興亡の歴史を見てきたであろう月影に浮かぶ古城の姿、そのゆるぎない姿に、城によって絵に生きる道を発見された。昭和6年(1931)尼崎に帰り、尼崎城址の荒廃を嘆いて城の研究に取り組む。その後氏の大変なる人生の紆余曲折の末、昭和34年東京の池袋で戦後の作品を公開し、そこで我国の城郭研究の第一人者烏羽正雄博士と知り逢われ、博士から全国諸城の鳥瞰図と城郭復元図についてさらに多くの示唆を得られ、一連の城郭画をつぎつぎと完成させていかれた。そして昭和50年7月、200点余の絵画を遺して、日本の城とともに生きられたその生涯を終えられた。 画伯の絵はその一点一点がじつに精緻、かつ史料による考証をもって写真にもまさる正確さで描かれている。ことに戦前に全国をめぐられた経験は、貴重な歴史の証言者として、すべての絵に生きている。「私の一生は城にはじまり、城に終る」これが画伯の回顧録として残っている。 いま、尼崎歴史博物館準備室では昔尼崎で実際に栽培されていた藍や綿、さつまいも「尼いも」の栽培を体験学習事業を実施している。綿は棉の実(コットンボール)から糸を紡ぐ体験を児童館とうで開催している。詳しくは、下に記した尼崎市のホームページにアクセスし、トップページの一番下のキーワード別索引集を開き、その中の歴史博物館準備室より、催し案内の放課後体験をクリックしてください。又、ミュージアムNEWも見てあげてください。 http://www.city.amagasaki.hyogo.jp参照 |